『不適切にもほどがある!』は全編観終えるまで自分は判断保留してるんだけど、80年代から現在までを、やはり「肯定」しようとしているわけで。宮藤は恐らく、現代的な倫理観の体裁に違和感があるのではなく、現代において自己否定の力が広く顕在していることに、抵抗があるのではないか。
そして太田光も、自己否定ではない力、「肯定」の力を志向する。彼はあらゆるものを「肯定」しようとする。誰もが自分自身を大切にするべきだ、と。ビートたけしは60年代に喰らってしまった自己否定のエネルギーを、お笑いという方法によって(開き直り的に)変換した。太田にとって根源的な動力になっているのは、そういう自己否定性ではないだろう。
しかし、宮藤にしろ太田にしろ、彼らの表現が持ついま・ここへの「肯定」性が、いま現在そのものとどうにも上手く噛み合っていないように、正直感じる(ぼくは彼らに思い入れがあるが、しかしやはりそう思う)。「もはや戦後ではない」ことや、戦後民主主義的な欺瞞性への検討・批判が一般化して久しいことももちろんあるだろうけど、前述したような自己否定の力の広い顕在化状況そのものにも、要因は恐らくあるはずだ。
そしてビートたけしとはまた異なるやり方で、自己否定のエネルギーに対して開き直り的に向き合ったのが、糸井重里である。たけしがお笑いという形で否定性の在り方・意味をねじ曲げたのに対して、糸井は否定性そのものを振り切る、無理やりにでも「肯定」性にフルベットすることで、70年代以降を生きようとした。が、いま現在の糸井重里の振る舞いの傲慢さは、まさにこの「肯定」性へのフルベットから生まれている。それはビートたけし的なボキャブラリーで言えば、「ずうずうしい」在り方、ということになる。
糸井の方法論=自己否定の暴力を脱するための開き直り的「肯定」性へのフルベットも、惰性になればまた別の暴力性を帯びるようになるのは、当たり前のことだ。そのことを、再びの自己否定でもなく、たけし的な言語=在り方を変換された否定性でもなく、何か別の方法で乗り越えなければいけない。宮藤や太田がやってきたことにその新しさの片鱗はあったのだが、しかし彼らもまたたけしや糸井が生み出した「場」の重力から逃れ切れていない。宮藤らにももちろん世代的な限界があるわけで、やはり新しい世代が、新しい方法を見つけ出していかなければならない。